★◆★★◆◇★◎★▽★◆★ 「Economy」を「経済」と訳すのは物理的にも人道的にも完全な間違い。アメリカや中国の「Economy」と日本の「経済」は似て非なるもの。基本、良心的にとらえても、そもそも「Economy=経済」ではない。 ★◆★★◆◇★◎★▽★◆★
●「Economy」を良心的に見た場合の語源
https://www.sankei.com/article/20150128-P65C5NBGENP2ZM6Z3Y3LW26N3I/
より引用
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「エコノミクス(経済学)の語源は、ギリシャ語のオイコノミコスである。 「家」を意味する「オイコス」と「慣習、法」を意味する「ノモス」の合成に由来する。 日本語では、「家政」という言葉が近い。 家政の延長に国の財政や金融の政策がある。」
●「経済」を良心的に見た場合の語源
https://www.rieb.kobe-u.ac.jp/research/publication/newsletter/column_back-issues/file/column103.pdf
より引用
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「経済という言葉は、「経世済民」を略したものであることはご存じのことでしょう。 経世 済民とは「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)うこと」です。」
現時点での「アメリカ」や「中国」の「Economy学」は、
「今だけ、金だけ、自分だけ(東大・鈴木宣弘教授発明コピー)」という
基本姿勢上に成り立っている学問なので、
つまり、取引相手に対して、「不平等、不公平、略奪」、を、
どれだけ合法(といっても悪どい身勝手な法律を勝手にこさえて)的にやるか、
の学問なので、
「金融悪用植民地化オーナー学(金融的植民地化学?)」
「不平等不公平詐欺的金融悪用超略奪学(不公平詐欺的金融超略奪学?)」
ともいうべき学問だと思います。
ミルトン・フリードマン以降は、その感じ、一色、になっている気がします。
日本の「経済学」もそのような傾向になりつつあります。
中曽根政権から本格的にはじまって、
竹中+小泉政権でもっともそれ(ミルトン・フリードマン的なモノ)が強化され、
岸田+財務省政権でさらに別の姿になり、磨きがかかっている。
しかし「日本の」「経済」とは、本来は、前述のような意味。
つまり、「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)うこと」です。
なら、日本の「経済学」は、
経済植民地化を解放するための、
「世を経(おさ)め、民の苦しみを済(すく)う学問」、
でなければならない、はずです・・・・。
今のところ、
まだ、
「金融悪用植民地化オーナー学(金融的植民地化学?)」
「不平等不公平詐欺的金融悪用超略奪学(不公平詐欺的金融超略奪学?)」
までには「完全には」堕ちてないので、
でも、
知能指数及び、「善意や良心や和の精神」がかなり低い、
『 エセ学者、エセ政治家、エセ経営者、エセ株主、エセ報道陣 』、
などが増えすぎて、アメリカや中国、新共産主義陣営、などに飼いならされて、
「もう半分そうなってる」ため、
安心はまるでできないので、
「完全な状態にまで」、
「堕ちる前に」、
なんとか『「経済学」』の教育を正さないといけないと思います。